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告知
2001年4月16日 4箇所目のG大学病院に検査入院。
4月24日 担当医より”筋萎縮性側索硬化症”と告知され、
「ご主人にはどうされますか?」と言われ直接話してほしいと言った。
帰宅する47キロの道中涙が止まらなかった。
『夕方で暗くなってきてよかった・・・』
翌日、G大学病院先生方2名、主人、長男、私が集まり改めて告知!!
「進行することはあってもいまより良くなる事はありません。」
”筋萎縮性側索硬化症”
そう告知されても、今まで聞いた事もないようなあまりにも難しい病名を実感できずにいた。
メモでもしなければ忘れそうな病名・・・
”筋萎縮性側索硬化症” ”ALS(amyotrophic lateral sclerosis)”
あとで長男に聞いたのだが、3年位で寝たきりになり、呼吸器を装着しないと生きてはいけない事、天井をみての生活は先生はあまり賛成できないと言われたそうだ。
長男へ告知したのは、主人や私にはショックが大きすぎると先生の配慮だったようだ。
帰宅してインターネットで調べ始めた私たち家族は、調べれば調べるほど恐ろしい病気であることを知った。
夜遅くまで話し合った。
主人は「治らないのか〜」とただ漠然と聞いていたが、有効な治療法は確立されていない難病だと理解したのは退院して数ヶ月経ってから知ることとなる。
4月29日 退院予定だったので子供たちと今後のことを話し合いとりあえず退職してもらおうということで一致。
ところが、主人の頭の中は仕事のことでいっぱいでした。
退院したら仕事へ行くので先生に診断書を書いて欲しいとお願いし、先生も困った様子だったが本人が望むならと書いてくれた。
2001年から会社への送迎をし始めた。どうやら仕事中も度々転んでいたと、職場の皆さんが教えてくれた。
思うように仕事がはかどらず、 「一生懸命職場の皆さんが働いてくれているのに申し訳ないと・・・」 5月の連休もお弁当を作ってと言われ、長男や私が付き添って仕事に行ったことも度々。
やがて無理がたたったのか高熱が続きM総合病院へ3週間程入院となりようやく仕事をあきらめた様だった。
のちに上司の勧めもあり休職となった
昨日出来たことが今日はもうできない!そんな日々が続いた。
主人が毎日何回も口にしていた言葉
「治らないかなー」
「悔しいなー」・・・。
いまでも私の脳裏にやきついている。 |
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